江戸時代の儒学者安井息軒の歴史


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* 2021/10/13.

年齢 出来事
1799(寛政11)年    飫肥藩清武郷中野に生まれる(旧暦1月1日)
1818(文政元)年 19歳  父滄洲と共に延岡へ旅する、紀行文『卯の花』
1820(文政3)年 21歳  都於郡に旅し、紀行文『志濃武草』
大阪で篠崎小竹に入門する
1821(文政4)年 22歳  兄清渓没する(25歳)
1822(文政5)年    篠崎塾を退き、帰国する
1824(文政7)年 25歳  江戸昌平坂学問所にて古賀伺庵に師事する
1826(文政9)年 27歳  昌平坂学問所を退く。江戸藩邸勤番を命ぜられ、藩主祐相の侍読を兼ねる。6月、母没する。8月、松崎慊堂に入門する
1827(文政10)年 28歳  松崎塾を退き、藩主と共に帰国。川添佐代を娶る。10月、郷校明教堂が創設され父と共に教授する
1829(文政12)年 30歳  塩谷宕陰より『明教堂記』が贈られる。平部嶠南らと双石山に登り『南山霞標記』
1831(天保2)年 32歳  藩校振徳堂が再興、父滄洲が総裁兼教授、息軒が助教となり飫肥に移住
1833(天保4)年 34歳  藩主祐相の侍読として江戸に上る
1834(天保5)年 35歳  藩主祐相に従い帰国
1835(天保6)年 36歳  父滄洲没する(69歳)
1836 (天保7)年 37歳  江戸移住の下見のため出発
1837(天保8)年 38歳  昌平坂学問所に入所、学問所斉長となる。外桜田邸大番所番頭となる
1838(天保9)年 39歳  藩職を辞し家族と江戸移住。紀行文『東行日抄』
1839(天保10)年 40歳  三計塾を開く(一説に天保12年)
1840(天保11)年 41歳  慊堂宅で藤田東湖と初めて対面する
1842(天保13)年 43歳  紀行文『讀書餘滴』、佐倉藩儒者となる
1843(天保14)年 44歳  飫肥江戸藩邸で論語会読を始める
1847(弘化4)年 48歳  『海防私議』、政務に参与、紀行文『続讀書餘滴』
1849(嘉永2)年 50歳  飫肥に養蚕製糸技術を伝える、『書説摘要』を脱稿、再熱稲種法を飫肥に勧める
1850(嘉永3)年 51歳  飫肥に種痘法を伝える
1852(嘉永5)年 53歳  飫肥・清武に種痘を公に施行するよう甥長倉玄圭に教訓を発する、『素堂記』
1853(嘉永6)年 54歳  水戸斉昭、藤田東湖を介して息軒に時事を問う。相談中を免ぜられ用人格となる。『靖海問答』『料夷問答』『外寇問答』『軍政問答』を著す
1854(安政元)年 55歳  『蝦夷論』を著し、開発の必要性を主張
1855(安政2)年 56歳  水戸斉昭より「足食足兵民信之矣」の書を賜る。『救急惑問』を著す。飫肥藩の刑法制定に意見書を贈る。『西鈴輯要』を著す
1856(安政3)年 57歳  紀行文『洗痾日乗』
1859(安政6)年 60歳  『睡余漫筆』を起稿する。紀行文『江山餘情』
1862(文久2)年 63歳  妻佐代没する(50歳)。藩御用人席となる。将軍家茂に謁する。塩谷宕陰、芳野金陵と共に幕府の御儒者となる
1863(文久3)年 64歳  両御番上席十五人扶持となる。直参十人扶持(学資)下さる
1864(元治元)年 65歳  終身六人扶持となる。奥州白川塙代官に任命→依願免官。『管子纂詁』を著す
1865(慶応元)年 66歳  後妻槙子を娶る。『養蚕私録』に序を贈る
1867(慶応3)年 68歳  徳川家の俸禄を辞する。『軍政惑問』を著す
1868(明治元)年 69歳  領家村に避難し『北潜日抄』を著す、『戦国策補正』を考訂、『書説摘要』を脱稿。『左伝輯釈』の出版の校正のために代々木の彦根藩別邸に移る
1869(明治2)年 70歳  明治新政府から天皇の侍講を勧められるが疾をもって辞退。飫肥藩臣籍に戻り、伊東祐帰の師範となる
1870(明治3)年 71歳  辞録を願い出る。旧藩主祐相より杖を賜る。清国人応宝時から『管子纂詁』の序文が送り来る。『管子纂詁』を改訂する
1871(明治4)年 72歳  清国人応宝時、邱濬洛から『左伝輯釈』の序文が送り来る
1872(明治5)年 73歳  元旦試筆「瓦全」と書く。『論語集説』版本なる
1873(明治6)年 74歳  『弁妄』『答問共和政事』を著す
1874(明治7)年 75歳  伊東祐相の墓碑銘を撰す
1875(明治8)年 76歳  宮崎県より十口俸、終身禄二十七石。『睡余漫筆』を書き綴る
1876(明治9)年 77歳  9月23日死去。東京千駄木の養源寺に葬られる


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