中国のイラン-ローマ東西交流歴史


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* 2021/09/01.

西暦 出来事
BC5世紀 中国 曽候乙の墓の遺物には西方の天文学や音 楽の影響が見られる遺物があり、また墳墓の形式としても当時の中国社会の標準を遥かに逸脱したものであるとのこと。曽候自ら西方人であったわけではないと 思うが、西方からの訪問者がこの頃既に見られたのかも知れない。
BC4世紀末‐3世紀 根拠は無いが、ササン朝滅亡時に多くのペル シャ人の中国移住が発生したことを考えると、アケメネス朝滅亡時にも、ギリシャの支配をきらって東方へ移住したペルシャ人がいたのではないだろうか。そう して秦に辿り着いた人々もいたのでは無いだろうか。 急速に発展した秦の中に その痕跡が見い出せるかもしれません。
BC327‐9年 アレクサンダー東トルキスタン征服。ギリシャ 軍今のフェルガナ盆地(現ウズベキスタン東部)まで到達
BC305年 セレウコス朝軍とマウリヤ朝軍対峙。ギリシャ 軍とインドの統一国家軍が対峙した唯一事件。和が結ばれアフガニスタンはマウリヤ朝に割譲される。
BC3世紀末 エラトステネスの地図に「絹の国」セレスが登 場
BC3世紀中 アショカ王の使節、エペイロス、セレウコス、 キレネ、エジプト、マケドニアに派遣される。
BC301-292年 セレウコス朝の使節メガステネス、マウリヤ朝 首都パータリプトラに滞在
BC126年 張騫大月氏国(今のタジキスタン西部のダルベ ルジン=テペに比定されている)へ到達。
BC2世紀末‐2世紀初 張騫とその副使番兜(ヘカトンピュロス?) (現イラン北部)、バクトラ(現アフガニスタン北部)、カブール(現パキスタン中部)等へ到達。その後も使者のやりとりが続いたらしい。漢とパルティア間 で正式の使者のやりとりが生まれる。判明しているものは武帝が送りミトラダテス2世が2万の兵で国境まで出迎えたものと、紀元96年シリア付近へ到達した 甘英、紀元106年パコールースが漢へ送った使者など。
BC102‐99年 李公利軍大宛を攻略。
BC1世紀 宣帝のころから王莽新時代まで100年西域都 護による西域経営
BC36年 カルラエでパルティアの捕虜となったローマ軍 という可能性のある軍団、中国へ到達? (「漢書」陳湯伝)
紀元前後 モンスーンの発見。アフリカ沿岸からインド西 岸へ直行する航路の開拓。結果エリトゥラ海貿易の繁栄。
74-125年 後漢による西域経営
91年 クシャン朝副王謝 カシュガル包囲。班超が撃 退。
96年 甘英シリア付近へ到達(この頃から大秦の名称 が使われ出したらしい)
105年 この頃までに「エリュトラ海案内記」記載され る。
106年 パルティア王パコールースが漢へ使節を派遣
105-159年 西域騒乱の為、天 竺国からの使者が断絶した。159年日南経由で、再度使者が来たとのこと。
149年 パルティアの王族である仏僧安世高洛陽に到 達。その後パルティア滅亡に伴い多数のパルティア領内の仏僧が東方へ移住したと思われ、中国に到達したものも多かったのではないかと思われる。
他に月氏の支婁迦讖、支曜、康巨、竺仏朔らが2世紀に 来朝
2世紀 マケドニア商人マエス(一名チチアヌス)の派 遣した商人がセレスへ到達した可能性があるとのこと。
2世紀 商人アレクサンドロス、カッティガラ(現ベト ナム クワァンチに比定)に到達
166年 大秦王安敦の使者と名乗る者、洛陽に到達
222年 「魏志」にゼン善、亀茲、于鬩より遣使あり。 西域に戊己校尉を置く、との記載。
226年 「梁書」に大秦の商人秦論、交趾に至り、孫権に拝謁した、との記載
229年 大月氏(クシャン朝王ヴァースデーヴァ=波 調)魏へ使節を派遣
3世紀 曇無諦、支謙、安法欽、康僧鎧、法護、維祗 難、竺叔蘭らが来朝
西晋代 ゼン善、車師前部、洛陽に遣子入侍の記載
4世紀 鳩摩羅什、仏図澄、曇諦、支道根、曇無讖、僧 伽跋証、仏陀耶舎などが来朝。
328年 李柏文書 前涼の西域長使としてクロライナ (楼蘭)赴任
382年 呂光 西域討伐。亀茲を討つ。
399-416年 法顕 「仏国記」 パミールを越えてインドへ 到達。セイロン島->インドネシア経由で山東半島へ帰国
435年 東トルキスタン諸国 北魏へ入朝。王恩生、許 綱を西域に派遣するがジュジュ(虫需虫需)に捉えられる。
437年 菫エン(王宛)、高明をローラン、カラシャー ル、クチャ、シャーシュ、ウソン、フェルガナ(破洛那)へ派遣。
  太武帝の時代ペルシャから頻繁に使節が到来し たとの記事(「魏書」列伝90西域の条)
518-22年 宋景・恵生・法力 パミールを越えてインドへ 到達
568年 ソグド人マニアクビザンツへ。 ユスティニア ヌス ゼマルコスを西突厥に派遣
576年 ユスティニアヌス ワレンティノスを西突厥に 派遣
7世紀初 煬帝 韋節、杜行満を西域諸国へ派遣。カシ ミール、ラージャグリハ、ケッシュ(シャフリサブス)などを訪問
628-642年 玄奘 パミールを越えてインドへ到達 「大唐 西域記」
638年 ササン朝ヤズデギルド、唐に救援要請の使節派 遣
651年 ササン朝滅亡 皇太子はじめ多数のペルシャ人 が唐に亡命
658年 唐突厥を破り東西トルキスタン制圧。以後 790年まで西域経営。
  王玄策 チベット経由でインドへ3度使節 ネ パール軍を率いてインドの内乱平定。「中天竺行記」
7世紀後半 義浄 海路インドへ到達 「南海寄帰内法伝」
慧超、悟空らもインドへ
715年 唐軍西トルキスタン討伐。以後現地勢力、アラ ブとの角逐続く。
74?年 高仙之 ギルギット(現パキスタン ギルギッ ト)討伐
745年 タバリスターン(イラン、カスピ海南岸)王、 唐に使節を送る。
747年 タバリスターン、ギーラーン、ダマーヴァン ド、デーラム、アーモル、バダシ、唐に使節を送る。
タバリスターン王帰信王に封じられる。
751年 タラス河畔の戦い。唐とイスラム帝国の戦い。 史上最初の東西世界帝国の抗争
756年 タバリスターン王子自会蘿長安へ来朝
  杜環(タラス河畔捕虜としてダマスクスに滞在 したらしい) 「経行記」 拂菻国の記事
790年 吐蕃進出による唐西域経営の終了

アケメネス朝:古代オリエントのペルシアに存在した王朝・帝国・遊牧国家。

アショカ王:マウリヤ朝の第3代の王。インド亜大陸をほぼ統一した。

キレネ:現リビア領内にあった古代ギリシャ都市で、この地方にあった5つのギリシャ都市の中で最大・最重要を誇った。

クシャン朝:中央アジアから北インドにかけて、1世紀から3世紀頃まで栄えたイラン系の王朝。

ササン朝:イラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン。

セレウコス朝:セレウコス1世ニカトルがシリア、バビロニア、アナトリア、イラン高原、バクトリアに跨る地域に築いた王国。

セレス:古代ローマ人、ギリシャ人が漠然と中国人、またはタリム盆地のアーリア系住民を指した語。

パルティア:古代イランの王朝。王朝の名前からアルサケス朝(アルシャク朝)とも呼ばれる。

マウリヤ朝:チャンドラグプタによって建国された、古代インドで栄えたマガダ国に興った王朝。

メガステネス:古代インドの地誌・風俗等の情報を西方に伝えたギリシア人。

後漢:中国の古代王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。

東トルキスタン:中央アジアのテュルク化とともに生まれた歴史的な地域名称。現在の新疆ウイグル自治区一帯を指す歴史・地理的な概念。

北魏:中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。

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